「夢」や「希望」

部屋の掃除をしていたら、大層ご丁寧に取ってあった中学、学生の時の冊子やらプリントやらがわんさか出てきた。
なんか、あの頃の恥ずかしさだとかもどかしさっていうものを感じながらも、無駄に、馬鹿みたいに過ごしていた若かりし10代の頃の物を色々処分していった。今の情けない自分の現状が少しでも変わるんじゃないかと思いながら。何も変わらないとも知りながら。

その中に、高校の時の作文集があった。中をペラペラとめくり、馬鹿だった奴と可愛かった娘の作文を読んでみる。すると、びっくりするくらい気軽に「夢」だとか「希望」という言葉がわんさか出てくる。
この頃は仕事なんてことを具体的に考えもしなかったし、学校に行って衣食住があって生活出来ることが当たり前だと思っていた。だけど、それがあったからこそこんなにも純粋にたくさんの「夢」だとか「希望」を膨らませ、語れたのかもしれない。
考えてみると、仕事だとかその他諸々の煩わしさに追われて、生活を維持する為の毎日になると、「夢」とか「希望」なんてものを見ることが無くなった。


夢のための生活か、はたまた生活のための夢なのか。


「夢」や「希望」を大きく持ち、語れるのは、生活の中で豊かな心と健康な体があった証拠だと思う。
自分は今どうしようもない状況だし、夢とか希望とか、、格好良い事とかは言えない。けど、夢や希望を多く大きく語れる、持てる、つまるところ豊かな心と健康な体でいられる、真の豊かな生活が子どもにとって必要不可欠なのは間違い無い。


夢や希望を持ち、語るのは子どもの特権であり、人類の宝、人類の活力なのかなと思う。その為にも、大人は子どもの本当の意味での豊かな生活を守る価値があるし、そうしていかなければならない。そうしなければ、「夢」や「希望」を持った事も考えた事もないような子どもが大人になって、世界を作っていく。
そんな世界は悲劇だし、つまらないよねきっと。